2013年7月18日木曜日

作品世界と作者の話

○前置き
 残念、予告は嘘でしたぁー。
 ということで、今回は作品世界と作者の話をしたいと思います。とはいえ、大体のことはバフチンという人が言っていることを参考に少しばかり手を加えて、実際の創作行為を述べるのに適当な形にしたのですけれどね。適当にした形については既に図示していますから、このブログ内を漁れば出て来るでしょう。私の種々の話はあそこが元になっていますからね。つまりは、あの図を理解していないと私の話は少々分かりづらいということになるでしょうか。


○作品世界と作者
 作品世界と作者と聞いて、大抵の人は
「作者が作品世界を作っている」
 このように考えるでしょう。もちろん、その考えには何の偽りもないのですけれど、問題なのは、作った作品世界を作品という形にする時の作者の態度と言いますか、振る舞いと言いますか、そのようなものについて、作者はちゃんと理解しておかないといけないということです。

 で、それなのですが、最初に明言しておきます。
「作者は作品世界の歴史的出来事を事実のままに作品に書くべし」
 というものです。
 こんなことを言うとあちらこちらから
「君、そんな馬鹿げたことを言うもんじゃないよ」
 とか
「それじゃ作者がただの記録者になるだけじゃないか」
 とか、そのようなことを言われそうですね。

 さて、私の言わんとするところをそろそろ記さないといけないのですけれど、私は「作者=作品世界における全知全能の神ではない」と考えております。その故は、例えば作者は主人公の全てを知っているでしょうか。それこそ全知全能でない限り主人公のスリーサイズから髪の毛の数に至るまで知らないでしょう。つまり、作者は案外作品世界について知らないことが多いのです。
 だからと言って、作品世界は作者が作ったものだから、作者の好きに動かせば良いではないか。そのような反論もあるでしょう。しかし、確かに作品世界を作ったのは作者であるけれども、そのように作品世界を好き勝手に制御するならば、わざわざ作品世界を作って作品として書く必要はありません。好き勝手にしたいのでしたら、ただ自分の妄想を羅列すれば良いだけです。

 ここに自分の考えた面白い物語としっかり形になった作品の違いがあるのではないでしょうか。かのバフチンは作中人物を通して彼の背景を作者は見出すとそのようなことを述べておりますが、このような指摘は非常に重要でありまして、例えば作者は主人公の生い立ちを考える際に主人公についてそれこそ取材のようなことをする訳です。そこに、実は作者の勝手な妄想は入らないと考えられます――邪推をしたとしても結果としてそれは採用されない。
 もちろん、これは主人公だけではなくて、作品世界の社会システムでありますとか、物理法則でありますとか、常識や慣習、宗教等々についてもそうでありましょう。
 私の考えた面白い物語は、あくまでも私(=作者)自身が面白いと感じた物語であって、その中では登場人物もそれ以外も作者から強制・命令されて、完全に奴隷と化していると考えられます。つまり、私の考えた面白い物語では、作者は作品世界を否定しているという形になっているのです。
 一方、しっかち形になった作品ですが、確かに作品世界を作る訳ですけれど、あくまでも作品世界が作品世界自身で動き出している状態であれば、作者は作品世界に対して過度の干渉をすることはなく、作品世界内の事実を作品として書いていくと考えられます。つまり、ここでは作者は作品世界を肯定しているということになります――偶に「ねぇねぇ、こんなことしてもええかい?」なんて作品世界に対して言うのでしょうが、それはあくまでも許可を得ております。

 話がややこしくて分かりづらいでしょうけれど、あくまでも作品は作者が見た作品世界の歴史的出来事と言うことが出来るでしょう。故に、作品内に作者の価値観などが入り込むことはあり得ますでしょう――かなり歪んだ形であってそう簡単に抽出出来ないけれどね。
 作品を書くのでしたら、これを機に作品世界に対する付き合い方を見直したら如何でしょうか。


○後記
 因みに、バフチンを何度か出していますが、彼の論に依拠している訳ではありませんので注意して下さい。彼の論を読む前に例の図は出来ておりますので、あくまでも参考と言いますか、後出し的に根拠としているだけです。

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