2014年4月26日土曜日

世界観に対する私見

書いておくと忘れにくい性格なので、メモ程度に世界観に対する私見を記述。



世界観は、作品における世界設定にまで意味を広げているが、その結果は混沌たる現状である。
元来は、世界に対する見方、となるだろう。

さて、作品における世界観は、一体何だろうか。
作者の世界観だろうか。
登場人物の世界観だろうか。
将又、作者の所属する社会の世界観だろうか……。

最後は横に置いておくとして、上二つは世界観に当てはまるかも知れない。つまり、
1.作者の世界観
2.登場人物の世界観
であるのだが、実はこのように明確な形で表すことが出来ない。
作者の世界観は作者の持つ現実世界に対する世界観であり、登場人物の世界観は登場人物の持つ作品世界に対する世界観である。

ここにある問題が有る。作者の現実世界と登場人物の現実世界は違うのだが、登場人物とその作品世界は作者の創作行為の中で生み出されたものであるのだ。したがって、1と2は実のところ等号で結ばれる可能性が有る。しかし、果たして登場人物が作者の影響下にいつまでも居るのだろうか、という問題が生じる。確かに、登場人物は作者に因って作られるのだが、登場人物が登場人物としての人生を歩み出した瞬間から、作者の手から離れていく。何故なら、登場人物について作者が詳細を決めていくと同時に、登場人物ははっきりとした人物として確立していくからであり、確立した登場人物は果たして作者の思い通りに動くのかどうか怪しい。例えば、作者が人間は愚かであるという見方を持っていたとして、登場人物は必ずその見方を持つのかと言えば、違うとすぐに分かる。
では、登場人物の世界観は単なる世界設定と成るのか。しかし、これもまた怪しい。何故ならば、作者は登場人物について全てを知り得ないからである。作者は作品についてあれこれと決定する力を有しながらも、実は何も知らない。寧ろ知らないからこそ想像力を駆使して決定しているのかも知れない。作者は登場人物だけで無く、作品世界のこと全てにおいて、設定するという最大権力を行使しない限り、作品世界について何も知り得ない。つまり、作者が設定を決めない限り、登場人物の世界観を知り得ないのだ。ここで次の反論が出るだろう――知り得ないことは存在しないことと同じだ。まさにその通りであるが、例えば我々が歴史上の人物について考えるのと同じことを作者はしていると考えられよう。彼はどのような人物であったか、様々な文献や資料に因りあくまでも推測していくのだ。作者の場合は、決定していくのだ。歴史上の人物が一応において現実世界に存在した人物であり、登場人物は作品世界というあくまでも架空の人物である、との指摘も有ろうが、登場人物が作品世界を現実世界として生きている以上は、然程に変わりないことである。

さて、長々と述べたところで、更なる混乱を説明する。作品を書くのは作者である以上、登場人物が作者と違う世界観を有していても、作品として書かれる際に作者の世界観に因って歪められる虞が有る、ということだ。作者は書く書かないの取捨選択が出来る故に、登場人物の世界観が如実に現れている出来事を無視出来るのだ。すると、登場人物の世界観は歪められて、中身が変質して仕舞う。






あれこれと述べたが、簡単に言えば、私の考えている世界観と世間一般で言う所の世界観は、違うということであり、私としてはそれについての議論を進めるべきにも拘わらず、言葉だけが一人歩きしている気がして成らない。この原因は、おそらく創作行為に関する大いなる誤解に有ると推察する。

2014年4月21日月曜日

作者の頭の中と常識

希に、作者の妄想を垂れ流したような、そんな作品を読むことがあります。このような作品を読むと、非常に疲れてしまい、読み終わった時の疲労は途轍もないものです。


さて、妄想垂れ流しの作品ですが、ここで言うのは、「作者の頭の中だけで完結している作品」のことを指します。
これの問題点は単純明快で、作品世界のあれこれが充分に作品に書かれていないことです。例えば、推理小説で、事件解決の重要な手掛かりが作品に書かれず、突然に犯人が書かれる。作者はちゃんと手掛かりを知っている訳ですが、それを作品の中に書かないと「どうしてこの人が犯人なのさ」と読者は思ってしまいます。

基本的に作品世界の出来事は作者しか知りませんから、それを読者に伝える為には、最低限の情報を作品の中に書かないといけません。敢えて書かない等の選択はその後です。






と、当たり前のことを書いた後ですが、ここからは少し意見が分かれるかも知れないこと。
作品世界の住人は彼等の常識(価値観、道徳、倫理、その他諸々)に従って生活している、と私は考えます。したがって、作者の常識と彼等の常識は基本的には違うと判断されるでしょう。この根拠は当ブログの二番目くらいの記事に当たりますが、詳しい説明についてはここでは省略。
作品世界の住人が作者と違う常識に基づいて動いているとすると、作者のああしたいこうしたいは作者一人の判断で叶うことが無いということになります。例えば、作者が登場人物Aに逆立ちをさせたい時、しかしAの住む世界では逆立ちをすることが常識から逸脱している。この時、Aに余程の動機が無いのなら、Aは逆立ちをすることが無いでしょう。
しかし、偶にAに逆立ちをさせたいから、Aが逆立ちをする場面を書く作者が居るようです。登場人物あるいは作品世界は、作者のおもちゃではないのですから、作者のああしたいこうしたいだけに基づいて作品を書くのは、あまりにもおかしな作品を生み出すことになりかねません。

作者は作品世界のことを良く知ろうとしないと、作品はそれこそ本当の意味でのファンタジー(空想)になってしまいます。本当に困りものです。