2015年3月10日火曜日

多メディア展開についての私見

「ある作品を1つのコンテンツとして、1つのメディアに囚われること無く、多くのメディアに展開していこう」



……そんな言葉を良く耳にしますが、確かに企業の戦略としては宜しいのかも知れませんが、私個人としては慎重です。
何故なら、メディアごとに出来ることと出来ないことがあるからです。
例えば、大和撫子と言うに相応しい少女が食事するシーンの情報量だけを取ってみても、「小説<漫画<映像」と成ります。


さて、上の例を参考にしますと、想像で補わないといけない箇所が「小説>漫画>映像」と逆になることが分かります。
小説は文字だけですから、大和撫子と言うに相応しい少女についてあれこれ書いても、読者によって大和撫子と言うに相応しい少女は様々に成ります。したがって、食事までになると、何を食べているのか、場所は、時間は……と不明な点が多く存在して、想像に任せるしかなくなります。
漫画は絵で表現しますから、その少女の身形がある程度はっきりします。少女の表情、仕草など細かな箇所まで提示されます。そして、何を食べているのかなども含め、そこには小説よりも想像の必要性は無いのです。
映像になると、そこに細かな時間的連続性が生じます。動作が途切れること無く一連のものとして認識されます。少女がどのような様子で食事をしているのか、より明らかになります。そして、音声が付くものならば、少女の声をちゃんと音という形で聞くことが出来ます。


私が慎重と言う理由の1つに、この点があります。メディア展開により、例えば小説がアニメ化された際には、大和撫子と言うに相応しい少女が明確な人物像をとって仕舞い、想像の余地が無くなります。
当然あれこれ好き勝手に想像されるよりも、明確になった方が良いこともあるでしょう。しかし、明確にしないことで成り立っている作品だとこれは困ったことになります。ある人物が謎の影を遭遇した、とあった時、これが映像化されるにあたり、影をどう表現するか悩ましいことでしょう。影を描いてしまったら、例えばある程度の大きさが判明して仕舞います。本当の意味で謎のままにしたいのならば、文章のままで曖昧にした方が良いのです。

今回は情報量を基に考えましたが、これはちゃんと解消してからメディア展開をして欲しいと思います。






と、ここまで書いたのですが、私の論から考えると、作品を他のメディアに、というのは無理な話で、正確には、作品世界を別の作品に、と成りますね。すると、本来ならそれぞれのメディアの作品には繋がりが薄いと考えられるでしょう。あくまでも作品世界で繋がっているのですから。勿論、作品を書く為に作品世界を創る訳ですから、元と成る作品を完全に無視することは出来ないでしょう。