2013年10月21日月曜日

第4回文化の日恒例文文大会開催予定

皆様、到頭この季節がやって参りました。
今年も文化の日恒例文文大会を開催したいと思います。
大会の概要は下記の通りです。

文化の日恒例文文大会
・使用キャラ:射命丸文
・開催場所:文ちゃん強化委員会(co569383)
・時間:11月2日(土) 22:00予定
・参加方法:月のない夜の密室(co403673)の掲示板に次の内容を書き込んで下さい。

  • 名前
  • サーバーの可不可
  • 明後日の予定

・その他:使ったことが無くても頑張る。

なお、都合により大会の開催が出来なくなることがありますので、予めご了承下さい。

2013年9月12日木曜日

テーマの件

○前置き
 テーマについて少々考えたことをここに記す。


○テーマ
 テーマ、と呼ばれるものは主題等々と訳されるものであるが、果たして創作においてどのようなものであるのだろうか。それを考えた時、以下の推論に至った。
 今、誰かが小説を書こうとしている。その時、その誰かは人間が長年抱えている社会的問題をテーマとして書くことを決める――社会的問題でなくて哲学でも政治でも良い。そして誰かは作品世界を作ってゆき、それを見て作品を書く。
 以上の場合において、テーマを考えた時、どのような問題が生じるかと言えば、
  1. 作者が持ったテーマによって作品世界が歪められる。
  2. 最初に抱いたテーマが歪められる。
の2つであると考えられる。
 まず、1つ目について、作品世界は作者の抱いたテーマのみによって覆われているのではないと推測出来る。これは現実世界においても、平時、戦時を問わず、例えば軍国主義の一色に染まるのは非現実的だと考えられるからであるが、戦時という特殊条件下においても主義主張は様々であり、また同じ主義の下でも主張の違いは大なり小なり考えられ得る。勿論、強制があるのだとすれば、表面では一色に統一されるだろうが、しかしそれはあくまでも表面上である。
 作品世界というものに関して、それこそその世界の住人達は十人十色である上に、多様の物語が存在しているのだから、作者の抱いたテーマ一色に染まることは無いと考えられる。この反論として、あるテーマ一色に染まる作品世界ならばどうか、というものが考えられるが、先に述べたように、表面では同じに見えても、より細かに見ていくならば差異が見えてくるのである。
 すると、作者の抱いたテーマによって作品世界を見ていくならば、それは作品世界を歪めていくことになるのではないか。例えば、作者が戦争の悲惨さをテーマに設定したとしよう。確かに戦争では戦闘によって多数の死者が死に、場合によっては虐殺等々の行為もなされる。しかし、戦争はそれが全てかと言えば違うのであり、戦闘が無い時には、兵士は陽気に歌い踊り楽しく過ごすこともある。では、作者がその状況を見た時、どのように反応するか。テーマに従えば、作者はそれを作品に書かず、無かったものとして処理するかもしれない。あるいは、それを含めて全体として悲惨であると作品に書くかもしれない。その結果、前者であれば悲惨さしか無いとして作品世界が歪められ、後者であれば楽しさの上に悲惨さが塗られる形で作品世界が歪められる。
 次に2つ目であるが、上の、あるいはそれを含めて全体として悲惨である、の部分から判断出来る。最初、作者は戦争の悲惨さをテーマにしたが、作品世界を見る途中で戦時の合間の安らかなひと時を発見してしまった。最終的にそれを含めて悲惨さと書いたが、ここに最初のテーマとの差異があることは容易に想像出来る。最初の悲惨さには、安らかなひと時は含まれていなかったのであって、それを含めた時点で最初のテーマと異なったものになっている。
 また、テーマに合致するように作品世界の出来事を切り取ったとしても、テーマが歪められる。何故ならば、書く前に抱いたテーマはあくまでも作者が抱いたテーマであり、いくらそれに合致する出来事を選択したとしても、選択されたそれらは作品世界においてのテーマである。つまり、最初に抱いたテーマの中に作品世界が入り込んでいるのである。
 以上において、1つ目と2つ目の考察を行ったが、ではこれらが起きた作品はどのようになるのか。以上の考察からは、作者のテーマでもあり作品世界のテーマでもあると考えられるテーマが――この表記は些か奇妙ではあるが――作品に書かれるとなる。当然ながら、そのテーマがどちらかの色が強く出ることはあり得るが、それでもどちらか一方に染まることは無い。


○後書き
 テーマに関して大まかに以上のことが指摘出来るだろうが、一切の参考文献を使わず思考実験のみである為に、論としては弱いかもしれない。
 そして、テーマに関するこの指摘が実際の創作においてどのように活用され得るかについても、まだ明確には出来ない。

2013年8月2日金曜日

ジャンルの件

○前置き
 前に、予告したものと違う内容の気がしますが、まあそれは脇に置いて、今回はジャンルについてあれこれ考えたので、適当に書き記しておきます。


○ジャンル
 ジャンル、というと例えばミステリ、SF、コメディ、云々かんぬんと様々にあるでしょうけれど、果たしてジャンルとは何でしょうか。私達は日常で上記のようなジャンルをよく耳にし、使っていると思います。そしてジャンルというのはとても便利なもので、あるジャンルを調べると無数の作品が出てきて、その中から適当に面白そうな作品を選ぶなんてこともしておられるでしょう。あるいは、作品分析の中では、この作品はあるジャンルに分類されて、あるジャンルにはあの作品も含まれているなんて、作品と作品の共通項を探し出せるなんてこともあるでしょうか。
 しかし、このような考え方があまりにも大手を振っておりますと、まるでジャンルの中に作品が含まれているような印象を受けてしまうかと思います。ジャンルではありませんが、このブログの記事にはラベルが付けられておりますが、このラベルを辿ると、例えば評論ならば評論のラベルが付された記事が並ぶことになります。このようなことはジャンルにも言えるかと考えられ、特定のジャンルの中に作品が目録として並ぶことになります。
 では、果たしてジャンルの中に作品が存在していると考えることは実際を捉えているのでしょうか――私の結論としては否であります。最も的確な反論としては、作品は複数のジャンルを備えていることがある、というものでしょうか。例えばラブコメディとか……え、ラブコメディというジャンルですって? でしたら、アクションラブコメディはどうでしょう。あるいは、SFアクションラブコメディは? あまり繋げすぎると無いよと思われてしまうのでここら辺でやめますが、作品はあるジャンル且つ別のジャンルということが平気で起こるものです――特に最近はなのでしょうか、スーパーフラットなんて言葉が出てますから(詳しくは知りませんけれど)。
 また別の反論としては、作品がジャンルに分けられる時、それは最終的に作品が完成し、それを読む、見る、聴くなどした結果として起こるものと思われます。つまり、読者等々が都合の良いように勝手に決めていると考えた方が宜しいということです。
 それで、結論ですが、ジャンルの中に作品があるのではなくて、作品の中にジャンルが様々あると考えた方が実際を捉えていると考えられます。

 このことは、何もジャンルばかりではなくて、例えば萌え要素もそうでしょう。よく例に出される某キャラクターがいますが、彼女はネコミミ且つメイド服且つ何々且つ何とか且つあれこれ、であって、萌え要素の中にあるのではなくて、萌え要素を彼女自身が持っているのですよね。お偉い学者さん方は分かっているのでしょうけれど、偶に無闇矢鱈にジャンル分けだ、分類だ、と言う人がいらっしゃるのですよね。

 ジャンルに代表されるような分類等々は、あくまでもその作品を理解する上での補助でしかなくて、ある特定の視点からの考察を明瞭にするものだと思いますが、作品の中にジャンルがあるのだと理解して、必ず作品全体ではどうかという問い掛けを忘れてはいけません。


○後書き
 一切の参考文献もなく考えたのですけれど、あまりにも当たり前の内容になりましたね。いくらスク水ネコミミ少女が可愛いからと言っても、スク水とネコミミだけでの判断は出来ないのですよ。
 そういえば、書き忘れましたが、今やジャンルはその殆どが境界無く地続きな状態かもしれませんから、その内にミステリ47%、SF26%、恋愛17%、コメディ10%、なんて分析をする人がいるかもしれませんね。そんなのを見たら「バカだなぁ」ときっと笑うでしょうけれど。

2013年7月21日日曜日

第3回くさび杯結果報告

第3回くさび杯の結果を報告します。

参加者(敬称略)
・orimagi
・メテオ
・トワプリ勢
・マダ
・激おこ
・しんぺー
・みぞる
・ろくしー
・ブロッコリー
・花粉上等
・マシン獣
・月兎耳
・ロリ―
・かいらる

順位(敬称略)
1.ロリ―
2.激おこ
3.花粉上等

 ロリ―さん、優勝おめでとうございます。予告通り、景品として楔弾幕一年分が贈呈されます。
 大会は何事もなく無事に終了致しました。皆様のご協力に感謝いたします。

 ……次回の大会は文化の日恒例文文大会ですが、こちらの都合により、日時が前後する可能性があります。あらかじめご了承下さい。詳しい日時につきましては、おって連絡致します。

2013年7月18日木曜日

作品世界と作者の話

○前置き
 残念、予告は嘘でしたぁー。
 ということで、今回は作品世界と作者の話をしたいと思います。とはいえ、大体のことはバフチンという人が言っていることを参考に少しばかり手を加えて、実際の創作行為を述べるのに適当な形にしたのですけれどね。適当にした形については既に図示していますから、このブログ内を漁れば出て来るでしょう。私の種々の話はあそこが元になっていますからね。つまりは、あの図を理解していないと私の話は少々分かりづらいということになるでしょうか。


○作品世界と作者
 作品世界と作者と聞いて、大抵の人は
「作者が作品世界を作っている」
 このように考えるでしょう。もちろん、その考えには何の偽りもないのですけれど、問題なのは、作った作品世界を作品という形にする時の作者の態度と言いますか、振る舞いと言いますか、そのようなものについて、作者はちゃんと理解しておかないといけないということです。

 で、それなのですが、最初に明言しておきます。
「作者は作品世界の歴史的出来事を事実のままに作品に書くべし」
 というものです。
 こんなことを言うとあちらこちらから
「君、そんな馬鹿げたことを言うもんじゃないよ」
 とか
「それじゃ作者がただの記録者になるだけじゃないか」
 とか、そのようなことを言われそうですね。

 さて、私の言わんとするところをそろそろ記さないといけないのですけれど、私は「作者=作品世界における全知全能の神ではない」と考えております。その故は、例えば作者は主人公の全てを知っているでしょうか。それこそ全知全能でない限り主人公のスリーサイズから髪の毛の数に至るまで知らないでしょう。つまり、作者は案外作品世界について知らないことが多いのです。
 だからと言って、作品世界は作者が作ったものだから、作者の好きに動かせば良いではないか。そのような反論もあるでしょう。しかし、確かに作品世界を作ったのは作者であるけれども、そのように作品世界を好き勝手に制御するならば、わざわざ作品世界を作って作品として書く必要はありません。好き勝手にしたいのでしたら、ただ自分の妄想を羅列すれば良いだけです。

 ここに自分の考えた面白い物語としっかり形になった作品の違いがあるのではないでしょうか。かのバフチンは作中人物を通して彼の背景を作者は見出すとそのようなことを述べておりますが、このような指摘は非常に重要でありまして、例えば作者は主人公の生い立ちを考える際に主人公についてそれこそ取材のようなことをする訳です。そこに、実は作者の勝手な妄想は入らないと考えられます――邪推をしたとしても結果としてそれは採用されない。
 もちろん、これは主人公だけではなくて、作品世界の社会システムでありますとか、物理法則でありますとか、常識や慣習、宗教等々についてもそうでありましょう。
 私の考えた面白い物語は、あくまでも私(=作者)自身が面白いと感じた物語であって、その中では登場人物もそれ以外も作者から強制・命令されて、完全に奴隷と化していると考えられます。つまり、私の考えた面白い物語では、作者は作品世界を否定しているという形になっているのです。
 一方、しっかち形になった作品ですが、確かに作品世界を作る訳ですけれど、あくまでも作品世界が作品世界自身で動き出している状態であれば、作者は作品世界に対して過度の干渉をすることはなく、作品世界内の事実を作品として書いていくと考えられます。つまり、ここでは作者は作品世界を肯定しているということになります――偶に「ねぇねぇ、こんなことしてもええかい?」なんて作品世界に対して言うのでしょうが、それはあくまでも許可を得ております。

 話がややこしくて分かりづらいでしょうけれど、あくまでも作品は作者が見た作品世界の歴史的出来事と言うことが出来るでしょう。故に、作品内に作者の価値観などが入り込むことはあり得ますでしょう――かなり歪んだ形であってそう簡単に抽出出来ないけれどね。
 作品を書くのでしたら、これを機に作品世界に対する付き合い方を見直したら如何でしょうか。


○後記
 因みに、バフチンを何度か出していますが、彼の論に依拠している訳ではありませんので注意して下さい。彼の論を読む前に例の図は出来ておりますので、あくまでも参考と言いますか、後出し的に根拠としているだけです。

2013年7月16日火曜日

「分かりやすい」と「改行」の話

○前置き
 こう見えても私は高校・大学と7年間文芸部に所属して――何かの賞を取ったことはないのですけれどね――また大学では表象文化論を専攻したということもありまして、長い間いわゆる小説と言うものと付き合ってきた訳ですが、最近縁あって齧った本の袖に書いてありました「分かりやすい」と言う言葉が妙に引っ掛かりまして、ここに記そうと思った次第なのですが――決して本の内容については記しません――まあついでにと「改行」のことも記そうと考えて、こうしてあれこれ記している訳です――本当は作品世界についてのあれこれを記したいのですけれど考えたことをすぐに書かないと忘れてしまう質なので。


○「分かりやすい」
 さて、上を読んでおそらく大半の方が「分かりにくい」あるいは「読みにくい」と思ったはずです。考えられる原因としては、
・文章が長い
・一文の中に多くの情報が入っていて混雑している
・ダッシュが多くて中心となる文が明確でない
等々が挙げられると思います。
 実際にそれらの点をクリアすれば、分かりやすい文になるかと思いますが、では小説における「分かりやすい」とはどのようなことを指すのでしょうか。

 「分かりやすい」という言葉を見た時、果たしてどのようなことを思い浮かべるでしょうか。
・平易?
・簡単?
・小学生でも分かる?
……etc
 もっと出て来るでしょうからこのくらいにしておいて、「分かりやすい」と言うとそんな類のことが連想されると思います。
 では、小説において「分かりやすい」とはどのようなことかを考えますと……
・物語の内容が簡単に理解出来る
・語彙が平易で文章の意味がすぐに理解出来る
・難しいことでも噛み砕いて説明されている
以上のようなことが出て来るでしょうか。

 突然ですが、ここで疑問を提示します。
“小説において「分かりやすい」は絶対に必要な事柄でしょうか?”
 この問い掛けに多くに人は
「え、分かりやすい方が多くの人が読んでくれるんじゃないの?」
「小難しいことが書いてあったら読まないよ」
と、おっしゃるでしょう。しかし、本当にそうでしょうか。
 確かに、難しいことが羅列されているよりも、「分かりやすい」ことが書かれている方が読みやすいですし、多くの人が取っつきやすいでしょう。けれども、「分かりやすい」文章、もっと言えば「分かりやすい」書き方というのは、あくまでも書く為の手段と言えます。

 例えば、主人公が小難しいことを延々と考えている状況があるとします。主人公は寝ても覚めてもうんうん唸って難しいことを考えています。それなのに、文章の方で「分かりやすく」書いてしまっては、読者はどうしてそんなに考え込んでいるのか理解出来なくなります。
 なら「主人公は難しいことを懸命に考えている」とでも書けば良いって?
 それも一理ありましょう。しかしながら、それでは難しいの程度が読者によってそれこそバラバラになってしまいます。もちろん、読者の解釈を一様にすることは不可能ですが、作者としては主人公が感じている難しさの方向を指し示さなければなりません(特殊事情がない限り)。何故なら、作者がそれをやめた時、小説は単なる作者の見聞きした都合の良い夢物語になってしまうからです。

 また、「分かりにくい」小説でも長生きしている小説も多くあるかと思います。例えば……例の奇書?ちょっと違いますが、「この本は難しくてよく分からないけれど、何故か惹かれる」というものがいわゆる読書家には一冊くらいはあるでしょう。

 「分かりやすい」は小説にとってはあくまでも手段。ですから「分かりやすい」こと自体が評価の対象となっている作品を見た時は、評価した人が小説のことをよく理解していないと考えて期待しないようにしましょう。
 そして、実際に書かれている方は、「もっと分かりやすく書いて」と言われても、「そこは敢えて分かりにくくしているんだ」と反論しましょう。当然、不必要に難しく書くのはダメですけれどね。


○「改行」
 どうして「分かりやすい」の話と一緒に改行を記すのかと言いますと、改行なく文章が続いているよりも、改行がされている方が何となく読みやすく感じたりすることがあるからです。
 一切の根拠はありませんけれど、改行にはそこで文の性質が変わることを伝える役目があるからだろうと勝手に解釈しています。

 それで、本題ですが、最初から申し上げますと、改行はあくまでも手段です。つまり、極論を言えば改行無しでも良い訳です。まあ、そんなことをやられたら改行しろと言いたくなってしまいますが、改行によってどのような効果が表れるのでしょうか。

 例えば、20行くらい段落が続いた後に改行し、短文を置いて改行して再び20行――こうなりますと間に置いた短文が目立つことになります。
 あるいは、改行によって前の文章とは内容的にも時間的にも切れることを示すことが出来ます。

 このように、改行は小説を書く上での表現の一手段でありまして、安易な改行はご法度であります。


○後記
 まあ、あくまでも私見ですけれどね。

2013年7月15日月曜日

第3回くさび杯

 ニコニコのコミュニティが今月の17日で3周年を迎えるに当たり、記念大会と言うことで第3回くさび杯を開催します。以下、詳細。


第3回くさび杯
・日時:7月20日(土)22:00受付開始 22:30大会開始
・場所:ニコニコ動の私のコミュニティ(「月のない夜の密室」co403673)
     stickamの私のプロフィール(「しるば~ごっど」profile/tsilvergod)
・ルール:以下のキャラをランダムにて選択し対戦。
 妖夢、リリカ、メルラン、ルナサ、ミスティア、文、メディスン、幽香
・参加方法:私に連絡するか、コミュニティの掲示板に書き込む。



 一応第3回なのですけれど、どのくらい人が来るでしょうかね。私としては、6人くらいではないかと踏んでいるのですけれど、花勢の方々は直前に押し寄せて来るので分からないのですよね。まあ、人数によってトーナメントかリーグか、将又両方なのかが決まるので、正直なところ参加の意志がある方は事前の登録をお願いしたいものです。出られなくなったら何らかの方法で連絡していただければ、こちらの方で対応しますので。


 ……ところで、景品なのですけれども、今まで通りの「楔弾幕一年分」で良いですよね?

創作行為に関する考察

 以前、創作について少ない知識を活用して下のようなものを考えたのですけれど、これが何処まで耐えられるものなのか皆目見当が付かないので、皆様で適当にあれこれや云々して欲しいと勝手に思った次第であります。
 因みにですが、これに似たことは既にミハイル・バフチンが言っているので、訳の分からない奴の言っている戯言よりも、そちらを参照した方が宜しいと思います。




開設

 ということで、第3回くさび杯の開催を機に、ちょっと遅すぎた感も否めませんが、ブログを開設と言うことで。
 それで、ここには色々なことが書かれるかと思いますが、色々なのであまり気にしない方が良いと私は思うのですよね。まあ、どうなるかは分かりませんが。
 さてと、色々と書いていきましょうか――表象文化論とかそっちの話が多くなるような気がする。