2013年7月21日日曜日

第3回くさび杯結果報告

第3回くさび杯の結果を報告します。

参加者(敬称略)
・orimagi
・メテオ
・トワプリ勢
・マダ
・激おこ
・しんぺー
・みぞる
・ろくしー
・ブロッコリー
・花粉上等
・マシン獣
・月兎耳
・ロリ―
・かいらる

順位(敬称略)
1.ロリ―
2.激おこ
3.花粉上等

 ロリ―さん、優勝おめでとうございます。予告通り、景品として楔弾幕一年分が贈呈されます。
 大会は何事もなく無事に終了致しました。皆様のご協力に感謝いたします。

 ……次回の大会は文化の日恒例文文大会ですが、こちらの都合により、日時が前後する可能性があります。あらかじめご了承下さい。詳しい日時につきましては、おって連絡致します。

2013年7月18日木曜日

作品世界と作者の話

○前置き
 残念、予告は嘘でしたぁー。
 ということで、今回は作品世界と作者の話をしたいと思います。とはいえ、大体のことはバフチンという人が言っていることを参考に少しばかり手を加えて、実際の創作行為を述べるのに適当な形にしたのですけれどね。適当にした形については既に図示していますから、このブログ内を漁れば出て来るでしょう。私の種々の話はあそこが元になっていますからね。つまりは、あの図を理解していないと私の話は少々分かりづらいということになるでしょうか。


○作品世界と作者
 作品世界と作者と聞いて、大抵の人は
「作者が作品世界を作っている」
 このように考えるでしょう。もちろん、その考えには何の偽りもないのですけれど、問題なのは、作った作品世界を作品という形にする時の作者の態度と言いますか、振る舞いと言いますか、そのようなものについて、作者はちゃんと理解しておかないといけないということです。

 で、それなのですが、最初に明言しておきます。
「作者は作品世界の歴史的出来事を事実のままに作品に書くべし」
 というものです。
 こんなことを言うとあちらこちらから
「君、そんな馬鹿げたことを言うもんじゃないよ」
 とか
「それじゃ作者がただの記録者になるだけじゃないか」
 とか、そのようなことを言われそうですね。

 さて、私の言わんとするところをそろそろ記さないといけないのですけれど、私は「作者=作品世界における全知全能の神ではない」と考えております。その故は、例えば作者は主人公の全てを知っているでしょうか。それこそ全知全能でない限り主人公のスリーサイズから髪の毛の数に至るまで知らないでしょう。つまり、作者は案外作品世界について知らないことが多いのです。
 だからと言って、作品世界は作者が作ったものだから、作者の好きに動かせば良いではないか。そのような反論もあるでしょう。しかし、確かに作品世界を作ったのは作者であるけれども、そのように作品世界を好き勝手に制御するならば、わざわざ作品世界を作って作品として書く必要はありません。好き勝手にしたいのでしたら、ただ自分の妄想を羅列すれば良いだけです。

 ここに自分の考えた面白い物語としっかり形になった作品の違いがあるのではないでしょうか。かのバフチンは作中人物を通して彼の背景を作者は見出すとそのようなことを述べておりますが、このような指摘は非常に重要でありまして、例えば作者は主人公の生い立ちを考える際に主人公についてそれこそ取材のようなことをする訳です。そこに、実は作者の勝手な妄想は入らないと考えられます――邪推をしたとしても結果としてそれは採用されない。
 もちろん、これは主人公だけではなくて、作品世界の社会システムでありますとか、物理法則でありますとか、常識や慣習、宗教等々についてもそうでありましょう。
 私の考えた面白い物語は、あくまでも私(=作者)自身が面白いと感じた物語であって、その中では登場人物もそれ以外も作者から強制・命令されて、完全に奴隷と化していると考えられます。つまり、私の考えた面白い物語では、作者は作品世界を否定しているという形になっているのです。
 一方、しっかち形になった作品ですが、確かに作品世界を作る訳ですけれど、あくまでも作品世界が作品世界自身で動き出している状態であれば、作者は作品世界に対して過度の干渉をすることはなく、作品世界内の事実を作品として書いていくと考えられます。つまり、ここでは作者は作品世界を肯定しているということになります――偶に「ねぇねぇ、こんなことしてもええかい?」なんて作品世界に対して言うのでしょうが、それはあくまでも許可を得ております。

 話がややこしくて分かりづらいでしょうけれど、あくまでも作品は作者が見た作品世界の歴史的出来事と言うことが出来るでしょう。故に、作品内に作者の価値観などが入り込むことはあり得ますでしょう――かなり歪んだ形であってそう簡単に抽出出来ないけれどね。
 作品を書くのでしたら、これを機に作品世界に対する付き合い方を見直したら如何でしょうか。


○後記
 因みに、バフチンを何度か出していますが、彼の論に依拠している訳ではありませんので注意して下さい。彼の論を読む前に例の図は出来ておりますので、あくまでも参考と言いますか、後出し的に根拠としているだけです。

2013年7月16日火曜日

「分かりやすい」と「改行」の話

○前置き
 こう見えても私は高校・大学と7年間文芸部に所属して――何かの賞を取ったことはないのですけれどね――また大学では表象文化論を専攻したということもありまして、長い間いわゆる小説と言うものと付き合ってきた訳ですが、最近縁あって齧った本の袖に書いてありました「分かりやすい」と言う言葉が妙に引っ掛かりまして、ここに記そうと思った次第なのですが――決して本の内容については記しません――まあついでにと「改行」のことも記そうと考えて、こうしてあれこれ記している訳です――本当は作品世界についてのあれこれを記したいのですけれど考えたことをすぐに書かないと忘れてしまう質なので。


○「分かりやすい」
 さて、上を読んでおそらく大半の方が「分かりにくい」あるいは「読みにくい」と思ったはずです。考えられる原因としては、
・文章が長い
・一文の中に多くの情報が入っていて混雑している
・ダッシュが多くて中心となる文が明確でない
等々が挙げられると思います。
 実際にそれらの点をクリアすれば、分かりやすい文になるかと思いますが、では小説における「分かりやすい」とはどのようなことを指すのでしょうか。

 「分かりやすい」という言葉を見た時、果たしてどのようなことを思い浮かべるでしょうか。
・平易?
・簡単?
・小学生でも分かる?
……etc
 もっと出て来るでしょうからこのくらいにしておいて、「分かりやすい」と言うとそんな類のことが連想されると思います。
 では、小説において「分かりやすい」とはどのようなことかを考えますと……
・物語の内容が簡単に理解出来る
・語彙が平易で文章の意味がすぐに理解出来る
・難しいことでも噛み砕いて説明されている
以上のようなことが出て来るでしょうか。

 突然ですが、ここで疑問を提示します。
“小説において「分かりやすい」は絶対に必要な事柄でしょうか?”
 この問い掛けに多くに人は
「え、分かりやすい方が多くの人が読んでくれるんじゃないの?」
「小難しいことが書いてあったら読まないよ」
と、おっしゃるでしょう。しかし、本当にそうでしょうか。
 確かに、難しいことが羅列されているよりも、「分かりやすい」ことが書かれている方が読みやすいですし、多くの人が取っつきやすいでしょう。けれども、「分かりやすい」文章、もっと言えば「分かりやすい」書き方というのは、あくまでも書く為の手段と言えます。

 例えば、主人公が小難しいことを延々と考えている状況があるとします。主人公は寝ても覚めてもうんうん唸って難しいことを考えています。それなのに、文章の方で「分かりやすく」書いてしまっては、読者はどうしてそんなに考え込んでいるのか理解出来なくなります。
 なら「主人公は難しいことを懸命に考えている」とでも書けば良いって?
 それも一理ありましょう。しかしながら、それでは難しいの程度が読者によってそれこそバラバラになってしまいます。もちろん、読者の解釈を一様にすることは不可能ですが、作者としては主人公が感じている難しさの方向を指し示さなければなりません(特殊事情がない限り)。何故なら、作者がそれをやめた時、小説は単なる作者の見聞きした都合の良い夢物語になってしまうからです。

 また、「分かりにくい」小説でも長生きしている小説も多くあるかと思います。例えば……例の奇書?ちょっと違いますが、「この本は難しくてよく分からないけれど、何故か惹かれる」というものがいわゆる読書家には一冊くらいはあるでしょう。

 「分かりやすい」は小説にとってはあくまでも手段。ですから「分かりやすい」こと自体が評価の対象となっている作品を見た時は、評価した人が小説のことをよく理解していないと考えて期待しないようにしましょう。
 そして、実際に書かれている方は、「もっと分かりやすく書いて」と言われても、「そこは敢えて分かりにくくしているんだ」と反論しましょう。当然、不必要に難しく書くのはダメですけれどね。


○「改行」
 どうして「分かりやすい」の話と一緒に改行を記すのかと言いますと、改行なく文章が続いているよりも、改行がされている方が何となく読みやすく感じたりすることがあるからです。
 一切の根拠はありませんけれど、改行にはそこで文の性質が変わることを伝える役目があるからだろうと勝手に解釈しています。

 それで、本題ですが、最初から申し上げますと、改行はあくまでも手段です。つまり、極論を言えば改行無しでも良い訳です。まあ、そんなことをやられたら改行しろと言いたくなってしまいますが、改行によってどのような効果が表れるのでしょうか。

 例えば、20行くらい段落が続いた後に改行し、短文を置いて改行して再び20行――こうなりますと間に置いた短文が目立つことになります。
 あるいは、改行によって前の文章とは内容的にも時間的にも切れることを示すことが出来ます。

 このように、改行は小説を書く上での表現の一手段でありまして、安易な改行はご法度であります。


○後記
 まあ、あくまでも私見ですけれどね。

2013年7月15日月曜日

第3回くさび杯

 ニコニコのコミュニティが今月の17日で3周年を迎えるに当たり、記念大会と言うことで第3回くさび杯を開催します。以下、詳細。


第3回くさび杯
・日時:7月20日(土)22:00受付開始 22:30大会開始
・場所:ニコニコ動の私のコミュニティ(「月のない夜の密室」co403673)
     stickamの私のプロフィール(「しるば~ごっど」profile/tsilvergod)
・ルール:以下のキャラをランダムにて選択し対戦。
 妖夢、リリカ、メルラン、ルナサ、ミスティア、文、メディスン、幽香
・参加方法:私に連絡するか、コミュニティの掲示板に書き込む。



 一応第3回なのですけれど、どのくらい人が来るでしょうかね。私としては、6人くらいではないかと踏んでいるのですけれど、花勢の方々は直前に押し寄せて来るので分からないのですよね。まあ、人数によってトーナメントかリーグか、将又両方なのかが決まるので、正直なところ参加の意志がある方は事前の登録をお願いしたいものです。出られなくなったら何らかの方法で連絡していただければ、こちらの方で対応しますので。


 ……ところで、景品なのですけれども、今まで通りの「楔弾幕一年分」で良いですよね?

創作行為に関する考察

 以前、創作について少ない知識を活用して下のようなものを考えたのですけれど、これが何処まで耐えられるものなのか皆目見当が付かないので、皆様で適当にあれこれや云々して欲しいと勝手に思った次第であります。
 因みにですが、これに似たことは既にミハイル・バフチンが言っているので、訳の分からない奴の言っている戯言よりも、そちらを参照した方が宜しいと思います。




開設

 ということで、第3回くさび杯の開催を機に、ちょっと遅すぎた感も否めませんが、ブログを開設と言うことで。
 それで、ここには色々なことが書かれるかと思いますが、色々なのであまり気にしない方が良いと私は思うのですよね。まあ、どうなるかは分かりませんが。
 さてと、色々と書いていきましょうか――表象文化論とかそっちの話が多くなるような気がする。