2014年4月21日月曜日

作者の頭の中と常識

希に、作者の妄想を垂れ流したような、そんな作品を読むことがあります。このような作品を読むと、非常に疲れてしまい、読み終わった時の疲労は途轍もないものです。


さて、妄想垂れ流しの作品ですが、ここで言うのは、「作者の頭の中だけで完結している作品」のことを指します。
これの問題点は単純明快で、作品世界のあれこれが充分に作品に書かれていないことです。例えば、推理小説で、事件解決の重要な手掛かりが作品に書かれず、突然に犯人が書かれる。作者はちゃんと手掛かりを知っている訳ですが、それを作品の中に書かないと「どうしてこの人が犯人なのさ」と読者は思ってしまいます。

基本的に作品世界の出来事は作者しか知りませんから、それを読者に伝える為には、最低限の情報を作品の中に書かないといけません。敢えて書かない等の選択はその後です。






と、当たり前のことを書いた後ですが、ここからは少し意見が分かれるかも知れないこと。
作品世界の住人は彼等の常識(価値観、道徳、倫理、その他諸々)に従って生活している、と私は考えます。したがって、作者の常識と彼等の常識は基本的には違うと判断されるでしょう。この根拠は当ブログの二番目くらいの記事に当たりますが、詳しい説明についてはここでは省略。
作品世界の住人が作者と違う常識に基づいて動いているとすると、作者のああしたいこうしたいは作者一人の判断で叶うことが無いということになります。例えば、作者が登場人物Aに逆立ちをさせたい時、しかしAの住む世界では逆立ちをすることが常識から逸脱している。この時、Aに余程の動機が無いのなら、Aは逆立ちをすることが無いでしょう。
しかし、偶にAに逆立ちをさせたいから、Aが逆立ちをする場面を書く作者が居るようです。登場人物あるいは作品世界は、作者のおもちゃではないのですから、作者のああしたいこうしたいだけに基づいて作品を書くのは、あまりにもおかしな作品を生み出すことになりかねません。

作者は作品世界のことを良く知ろうとしないと、作品はそれこそ本当の意味でのファンタジー(空想)になってしまいます。本当に困りものです。

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