2014年8月25日月曜日

「結ぶ」についての解釈

 先日、「統括する」を「結ぶ」に変更しました。これはバフチンの論に近付けた形に成ります。したがって、「作者」が「作品世界」を「結ぶ」と改めました。
 しかし、この「結ぶ」という行為は非常に厄介でありまして、例えば作品を「結ぶ」と勘違いされる可能性が在ります。私の考えでは、作品を書くのは「結ぶ」ではなく「閉じる」だと思うのですよね。作品を「結ぶ」だと例えば一本の紐の両端を結んでここからここまでと範囲を決めるような行為と成りますが、それは書くと同義ではないと考えます。何故なら、書くという行為は作品を作品としての終わりに向かう行為であり、つまりは作品としてのここでお仕舞いに向けて進む行為だからです。書く行為は作品を終わりに、そこから先は在りませんよ、どん詰まりですよと成る行為ですので、「閉じる」と考えるのが良いのではと考える次第です。

 さて、本題の作品世界を「結ぶ」ですが、結ばれた作品世界は作品世界として自律する、と私は考えておりますが、果たして結ばれることが在るのか怪しいのです。例えば、作者は作品世界の設定を見直すことをします。これが可能なのは作品世界が作品世界として完結していない、つまり結ばれていないからだと考えられるでしょう。もし作品世界が結ばれていれば、設定を改めることなど出来ません。結ばれているとは、作品世界が作者からの影響を受けない状態ですから。しかし、現実では作品世界は作者に因って何度も検討され、改編されております。すると、作品世界は永遠に結ばれないと考えるのが良いのではと考えられます。
 バフチンは作中人物が作者の表面に居るとか何とかと確か言っていたような気がするのですが、それはつまるところ作中人物は作者と接している状態を意味します。作中人物は作中人物としての人格を持っていながらも尚も作者からは離れていないのです。それは作者の影響を受ける可能性を充分に秘めていると解釈出来ます。バフチンは作中人物についてのみの言及ですが、これは作品世界に関しても同じと考えられます。作者は作品世界について全てを知り得る立場ではないですが、作品世界のあらゆる事柄に関する決定権を持っております。結ばれた作品世界とは、作品世界が完全に開闢されて、作者の決定権が行使出来ないような状態を指します。故に、作品世界に関して決定権を行使しなければ成らない状態である以上は、作品世界は結ばれていないと成ります。







 と、そのようなことを考えたのですが、私の考えは異端なのですよね。そもそも、作品世界と作品を区別する時点で異端なのです。作品世界は作品に表れているものと考えるのが一般的ですから。その一般的な考えの為に、自動物語作成機みたいな発想が出て来るのでしょうが、私見では余りに複雑な行程を経るので、少なくとも今現在の技術では不可能かと。
 さて、どんどん理論を強化して小説を書き進めないとね。
 

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